「思い出」

 旅に出る時に持っていく荷物を全て詰め終えてから、テッドは、はたと大切な物を入れ忘れていたのを思い出した。
 慌てて枕の下に入れておいた小さな木片を引っ張り出し、それをまじまじと眺めた。
 長い間持ち歩き続けたそれは、手垢やら、何かの脂やらですっかり汚れて、薄黒くなっていて、つるりとした触感になっている。
「よくまぁ、こんなに長く一緒にいたもんだよなぁ」
 小さく独り言ちて、テッドはその木片をそっと撫でた。
 三百年前、貰った時にはもっとカクカクした、目やら嘴やらがきちんと彫り込まれた小さな小鳥の置物だったのだが、長い長い年月と共に、カドや彫り込まれた模様はすっかり摩擦で消えてしまい、丸くてスベスベした手触りの只の木片になってしまった。
「鳥だ、って主張しないと、もうなんの形だか判んないな」
 自分が生きてきた、三百年という年月の長さを思い知らされて、テッドは目を眇めた。
 辛い事ばかりだった訳じゃない。楽しかった事や、嬉しかった事もちゃんとあった。テッドは小鳥の置物をぎゅっと握った。
「おにいちゃん……」
 顔すら思い出せない。けれど、忘れる事も出来ない。長い旅が始まったあの時、燃え上がる村から助けてくれた『おにいちゃん』がくれたこの木彫りの小さな置物は、ずっとテッドの宝物だった。
 三百年間、良くもまあなくさずに持っていたものだと、テッドは自分に感心しながら、それをそっとポケットに入れた。
 昔は、鳥の背中に紐を通す金具があって、そこに紐を付けて首からぶら下げていたのだが、その金具はとうの昔に外れてしまい、ポケットに入れるか、小さな巾着に入れて首から吊すかの二択になってしまったのだ。
──そう言えば、おにいちゃんの事、最近思い出さなくなったな。
 ポケットの中の小鳥をそっと握りしめて、テッドは眉根を寄せた。自分の思いも、この木彫りのように、形を失いつつあるのだろうか。
 不意に泣き出しそうになって、テッドは強く目を瞑った。
「絶対に会える、っておにいちゃんが言ったから捜し続けていたはずなのにな」
 目を開けたテッドは、ポケットから再び木彫りを取り出した。
──捨てよう。もう、きっとおにいちゃんには会えない。
 根拠はなかったが、少年は何故かそう確認していた。
 潔く燃やすつもりで、木彫りを握りしめたまま暖炉に向かったものの、どうにもそこに投げ込む勇気が出ず、炎の前で逡巡していると、突然、家のドアが開いた。
「テッド」
「ぅわぁ!」
 狭い部屋に、自分を呼ぶ声と、己の悲鳴がほぼ同時響いた。
 自分の心の内に集中していたテッドは、突然の来客に心臓が止まるかと思う程驚いた。そして、この家を訪なった客も、主の悲鳴に目を丸くしていた。
「ウェイル」
 早鐘を打つ心臓を抑えつて、テッドは来客の顔を見た。
「なんか、驚かせたみたいだな」
「いや、うん、まぁ、オレもぼんやりしていたから……」
 ウェイルは、床に落ちている何かを拾い上げながら苦笑を浮かべた。
「へそくりでも隠してたのか?」
「違うって、そんなんある筈ないだろ」
 何を拾ったのだろう、とテッドがウェイルに近付くと、それは件の木彫りだった。
「あれ?」
 己の手を見ると、おにいちゃんがくれた木彫りは確かに消えている。先程、驚くあまり落としてしまったのだろう。
「これ、何だ?」
 ウェイルは小鳥だった木彫りを掌に転がしながら、不思議そうに聞いた。
「ええと、小鳥の、置物?」
 最後に疑問符が付いたのは、今のこの状態では、そう主張するのが憚られたからだ。
「鳥?」
「そう、鳥。ほら、この辺のフォルムがさ、鳥っぽいだろ」
「お前が作ったの?」
「人から貰ったんだよ」
「ふーん」
 しげしげと眺めるウェイルに、テッドは何故か後ろめたい気持ちになった。
「かなり古いな」
「そりゃあ、さん……多分、古いけど。でも、大事なんだ」
 三百年物なんだぜ、と言える筈もなく、テッドは慌てて誤魔化した。
「でも、お前、暖炉に捨てようとしてなかったか?」
──そんな処まで見ていたのか。
「いいじゃないか、そんなの」
 そう返したが、黒髪の少年にとってはどうでも良くない事だったらしい。じっとテッドの顔を見詰めてくる。
 その視線に耐えられなくなって、テッドは結局口を開いた。
「だって、もう、かなり古いし、なんの形だか判らないし、ずっと、忘れられなくて持っているのがなんだか女々しい気がするし……」
 忘れかけている事を思い知らされて、申し訳なく思うのも嫌だし。という一番の本音だけは飲み込んだ。
「ふぅん」
 ウェイルは詰まらなさそうに頷いて、
「じゃあ、燃やそうか」
 と暖炉の中に投げ込もうとした。
「──っ!」
 燃える瞬間を見たくなくて、反射的に目を瞑ると、こつん、と額に何かがぶつかった。
「ばっかだなぁ! 捨てられないなら取っておけばいいだろ」
 手の中に、燃えたと思った小鳥の置物を入れられて、テッドは目を丸くした。
「本当に要らなくなったら、捨てられるだろ」
──そういうものか。
 無理して忘れる必要もなければ、無理して思い続けている必要もない。
 そう言われたような気がして、テッドは素直に頷いた。
 今まで悩んでいたのが馬鹿みたいに思えた。
「そんな事より、お前明日の準備出来たのか? 朝早いから、うちに泊まってく、って言ってただろ?」
「あ、それは終わってる」
「じゃあ出掛けようぜ。新しいのを買った方が良い装備もあるから、防具屋と道具屋に行きたいんだ。帰る頃に、ちょうど晩飯だと思うし」
「今日の晩飯なにかなぁ。グレミオさんの料理美味しいんだよな!」
 再びポケットの中に小鳥の木彫りを入れて、テッドは鞄を肩にかけた。
 その時点で、彼の意識の中から『おにいちゃん』の事は追い出されて、今日と明日の事でいっぱいになった。けれど、それに対する後ろめたさは不思議と消えていた。

終わり。

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かなりの時間、放置していてすみません。
半年ぶりの更新です。

300年も生きていれば、記憶が薄れるのも当たり前だと思うんですが、
テッドの場合、それが罪悪感になるような気がします。
自分が殺してきた人達は、忘れてはいけない、重い十字架で、
おにいちゃんの記憶は、それが生きる希望だったんじゃないかなぁ、と。
マクドール家で、テッドは今の幸せに目を奪われて、
過去の罪とか今までの希望とかをうっかり忘れかけていて、
クイーンアントを前にした時にそれを思い出して、ウィンディから逃げて、
雨の中を走り回っている時に、そんな自分に全力で嫌気がさしていればいいと思う(酷)。
ここで出てくる小鳥の木彫りはかなり前から考えてたネタなので、きっと又どこかに出て来ます。

070514 すぎた。